2012年11月25日

第52回:人を見る場合、最後は目だ!!

『目利きというのはやっぱりありますね。

 経営コンサルタントの堀紘一(ほりこういち)さんも言っていました。アイルトン・セナ.jpg

 人を見る場合、最後は目だ!!

 目を見るとわかる!!と言っていました。

 なぜだと思います?

 勘じゃないんですよ。

 目と言うのは、体の中で唯一、

 神経細胞が露出している場所って言うんですよ。

 瞳というのは、細かく光っているものがありますよね。

 あれって神経なんですよ。

 唯一、外から見ることができるんです。

 嘘をついていると「嘘ついてます」って瞳孔が開いたり、目が泳いでしまう。

 実はそれを人間は直感で見分けているんです。』

 (「お国の機関」で言いたい放題A【毒舌お笑い系】by栢野克己YouTube動画より、一部加筆修正)

『やぶっちコメント』
 企業へ投資する際、その会社の社長に会える場合や
 会えなくてもテレビなどで見ることができる場合に、
 自分は必ず、社長が言っていることがホントかどうか確認するために、
 目をみるようにしています。
 どんなにプレゼンが良く、利益が出っていても目が信用できない場合は
 投資を見送るようにしています。
 また、投資以外でもその人が真剣に考えているかどうかを判断するのに
 目をみて信用したり、重要なお願いしたりするようにしています。
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2012年07月27日

第44回:群盲象を撫でる

『町に盲学校があった。 あるとき、子供たちを森にピクニックに連れていった。
 昼ご飯を食べて、思い思いに休んでいると、そこに象と象使いが通りかかった。
 先生は子供たちに象という動物を学習させたいと思い、
 象使いに象を触っても良いか頼んでみた。
 象使いはニコニコしながら言った。
「いいですよ。この象はおとなしいから、触っても大丈夫です」
 先生の指示にしたがって、子供たちは象を取り囲むようにしながら象に触れはじめた。

 一人の子供は象の耳に触った。その大きな耳をやさしくなでながらこう思った。
「象は大きなうちわのようだ」
 別な子供は象の足にふれて、思った。「象は太い柱のようだ」
 また、別な子供は象の鼻にふれて、「象は太いこん棒のようだ」と思った。
 象の腹に触れた子供は、「象は大きな壷のようだ」と思った。

 誰もが象にふれた体験を喜んでいた。
 学校に戻ってから、先生が子供たちに訊ねた。
「象というのは、どんな動物でしたか?」
 子供たちは、それぞれ感じたことを話しはじめた。
「象は大きなうちわみたいなものです」と最初の子供が言った。
「違うよ。君はわかっていない。象は太い柱みたいなものだ」と二番目の子供が言った。
 三番目の子供が、笑いながら二人のあいだにはいって、言った。
「何てばかなことを言ってるんだ。象はうちわのようでもないし、柱のようでもない。
 それは太くて長いこん棒みたいなものだよ」
 三番目の子供が言い終わらないうちに、また別な子供が口をはさんだ。
「だれもわかっていない。象は大きな壷みたいなものだ。そうでしょう、先生!」
 子供たちの議論は白熱して、しまいには口論になってしまった。

 それが峠を過ぎた頃に先生は言った。
「先生が象とはどんな動物か話してあげよう。
 みんなが言ったことは正しくもあり、間違ってもいる。
 君たちのそれぞれが触れたのは、象という動物の一部分だ。
 そこから象の全体像を説明しようとしても、それはできない。
 
 象はうちわのようでもあり、柱のようである。
 また、こん棒のようでもあり、壷のようなものでもある。

 それら全てを合わせた以上の何かです。
 そして、何かを知るためには全体を見ることによって
 はじめて全てがつながって理解することができ、
 みんなに説明することができるのですよ。」』
群盲象を撫でる.jpg

『やぶっちコメント』
 一つの大きなことを理解するためには、様々な視点から見ることが
 大事であることを教えていると文章です。
 もちろん投資をする際の調査も、いろいろな視点から調査しなければ
 きちんとした投資はできないと自分は考えます。

 また、自然科学、社会科学は個別科学です。
 これに対し哲学は自然と社会を合わせたその全体を対象としており、
 全体科学とも世界科学と言われています。
 人生においては、まず全体を知ることこそ、悔いのない生き方だと自分は思います。
 
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2012年06月10日

第41回:唯物論と観念論

マルクス.jpg『こういうええ加減な世の中になってくると、人間には哲学が大切になってくる。
 哲学とは、もうこれ以上のことは考えられないというギリギリ最後の問題まで、
 必死になって考え、追求する学問である。

 人間にとって”ギリギリ最後の問題”とはなんだろうか?
 それは唯物論か、観念論かという問題である。

 唯物論と観念論は、根本的に対立する哲学上の二つの立場で、
 唯物論こそ科学の原則的な観点にほかならず、
 観念論は宗教につながるものである。

 複雑怪奇な現代社会を生きる人間は、どちらの立場をとるのか、
 はっきりさせる必要があるように思う。

 唯物論か観念論か。

 これは人間の最後の最後のギリギリの問題であると同時に、
 大げさではなく、人間の生き方のすべてを決定する第一義的なスタート地点でもある。
 どちらの立場をとるかによって、その人の人生はまるで変ってくる。
デカルト.jpg
 観念論の立場は、デカルトが提出した命題に要約されている。
 「我思う、ゆえに、我在り」
 デカルトは、自分が「思う」からこそ、自分が「在る」と断言している。
 つまり、「思う」ことが人間の根源であるとする哲学である。
 この立場をとるなら、「思う」ものは「在る」ものである。
 人間は神を「思う」。「思う」からこそ、神は「在る」ということになる。

 唯物論の立場は、これとはまったくの逆の正反対だ。
 「我在り、ゆえに、我思うなり」
 と逆転する。
 唯物論では、人間は「在る」からこそ「思う」のである。

 神を否定している僕は、もちろん唯物論者である。
 あなたは、どちらの立場を取るだろうか?

 もう少し、「在る」と「思う」について考えてみたい。
 例えば、この世の中はどうだろうか?
 もし、この社会が、あなたが「思う」から「在る」のだとすれば、あなたの死後、
 社会は存在しないことになる。
 けれど、あなたが死んでも、間違えなく、この社会は存在している。
 あなたの死で、社会が終わるわけではない。
 終わるのは、あなたが社会を「思う」ことだけだ。
 たしかにあなたが死ねば、あなたにとっての社会はなくなったのと同じだが、
 それは社会がなくなったことではない。
 人間は、しばしば、「在る」ことと「思う」ことを混同してしまう。

「神さまはいます。絶対に存在します」という人でも、問いつめてみると、
「神さまに会ったことがある」という人はいない。
 つまり、神さまは「在ると思う」と思っているだけなのだ。「在ると思う」を縮めて
「在る」と言っているだけのことなのだ。
 なかには「神の姿を見た」と言う人もいるが、それは幻覚の中での話である。
 やはり「見たと思う」だけのことである。
 これでは、神の存在を理論的に証明したことにはならない。
「神さまは心の中にいる」というのなら、何も言いません。
 それはまさに「思う」ことであって、神の存在を証明したことにはまるでならない。

 僕が知っている新聞社の記者は、なんと唯物論を知らなかった。
 やっぱり唯物論を知っとかんといかん。知らんと、どうしてもまずい文章になってしまうんやね。
 文章の基準点をどこに置くかと言うたら、科学を基に置かないとアカンのよ。
 それを基に文章を書かないとダメなんですわ。
 唯物論を知らん新聞記者は、真理を伝えるためのそこが欠落してるわけや。
 いくら賢くても、唯物論を知らないばかりに常識が判断できないわけです。
 だから「おそらく天国でも小渕さんは幸せにしてるでしょう、今、沖縄サミットを喜んでおられるでしょう」
 といった文章を書いてしまう。どうしてもそういう書き方をしてしまうわけや。』
(ゼニの人間学より、一部加筆修正)

 ゼニの人間学 (ロング新書) [新書] / 青木 雄二 (著); ロングセラーズ (刊)

『やぶっちコメント』
 自分は、投資をする企業を調査するときは、唯物論の思想で考えるようにしています。
 特に経営者の発言、コメントが実現可能なことを言っているか、
 財務諸表(貸借対照表、損益計算書、キャッシュフロー計算書など)
 を読むときは必ず科学的な根拠があるかを気にしながら読むことにしています。
 それによって、投資のリスクを少しでも抑えるようにしています。

 また、昔読んだ別の本の中で、唯物論と観念論についての考え方で、
「なるほど」と思った内容を紹介したいと思います。

 ≪不滅の精神について≫
 「観念論は、精神、霊魂の不滅をいいますが、唯物論は物質の不滅性を主張します。
  しかし、だからと言って唯物論者は精神の不滅性を否定しているわけではありません。
  死んだ人の思想、考え、希望(こうした他人の意識は書籍、ノート、声というような物質を媒介として)
  は生きている人の脳の働きである生きた精神の中で生き続けます。
  生きている人間が先人たちの思想、希望、理念を引き継ぐ限り、先人たちの魂は不滅と言えます。
  死者も生者の記憶の中で生き続けます。
  マルクスもまた、私たち、更にあとに続く世代の人の中に生き続けます。」
 

 自分のブログやインターネット上に書いたコメントなども自分が死んだあとも残ることを意識して書いています。
 また、少しでも自分のブログが未来の人たちの役に立てたらいいな〜という思いもあってこのブログを書いています。

posted by やぶっち at 22:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 人生訓 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月19日

第40回:情熱を持てるものを見つける

パブロ・カザルス.jpg『安楽で贅沢な暮らしをするのが目的ではない。
 自分が情熱を持って取り組める仕事が必要なのだ。

 重要で自分がのめりこめると直感する仕事を見つけることから始めよう。
 見つけたら、その仕事を熟達するよう毎日努力することが大切だ。
 そうすれば、その仕事で裕福になれるかどうかはわからないが、
 楽しい人生を送ることができる。
 スペイン生まれの偉大なチェロ奏者パブロ・カザルスは、
 九十五歳になったとき、若い記者からこんな質問を受けた。
「あなたはもうご高齢で、しかもすでに史上最高のチェロ奏者です。
 それなのになぜ、「一日に六時間も練習されるのすか?」
 カザルスは、「自分がまだ上達していると思うからだよ」と答えた。
 これこそ、自分が情熱に駆り立てられている人の生き方だ。
 彼にとって、チェロ奏者として上達することは重要で自分がのめりこむことができる仕事であり、
 一日に六時間も練習し続ける原動力になっていたのだ。
 あなたは何に情熱をもっているか?
 安楽で贅沢な暮らしをすることはすばらしい。
 しかし、私たちに最も必要なのは、
 自分が情熱を持って取り組めて感動できる仕事なのである。』
 (自宅にいながら金持ちになる方法 P62より、一部加筆修正)
自宅にいながらお金持ちになる方法 [単行本] / マイケル ルボーフ (著); Michael LeBoeuf (原著); 弓場 隆 (翻訳); ダイヤモンド社 (刊)

『やぶっちコメント』
自分は投資にすごく興味がり、企業調査や投資戦略、投資手法などを創造的に考えたりするのがすごく好きです。
例えるなら、トランプゲームをやっているのと同じ感覚で次はどんなカードがでるか、
どんな手でいくか考えるのと同じ感覚でいつもワクワクできます。
好奇心が自分を動かします。

そして投資活動は頭がボケない限り、定年はなく、いくら歳をとっても続けれることを知っています。
あなたも死ぬまで続けたいと思えること、一生情熱を持ってやり続けたいと思えることを探してみてください。
自分で探さなければみつかりませんが、見つけることができればきっとより良い人生になると思います。
posted by やぶっち at 22:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 人生訓 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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